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12月, 2023の投稿を表示しています

最初は立派で後ではみすぼらしくなるな

『 ラーヤパセーニヤ 経』(抄)──パエーシ王物語 34より その時、若くして出家したケーシはパエーシ王にこういった。「お前は、パエーシ、最初は立派で後ではみすぼらしくなるな。森や劇場やサトウキビ工場や脱穀場のように」 〈沈思黙考〉 最初は立派で後ではみすぼらしくなるな 〈応用・適用・活用〉 独り占めせず、分け与えお互いに活かしていこうということ。 森は、葉が茂り花が咲き実が稔り、緑の植物の光で美しくとても輝いていると、立派だ。しかし葉が茂らず花が咲かず実が稔らず、緑の植物が光らず美しくもなく、とても輝いていなければ、古くなり荒れて萎んだ黄色い葉で全体が枯れ木のようになる。すると森はみすぼらしくなる。 葉が茂り花が咲き実が稔り美しく輝いていると、その森の輝きは周りに益をもたらすとも解釈できる。 人間でいえば、上に立つ者、例えば今回のくだりに出てきたパエーシ王が輝いていれば、民も輝く。民が輝くような王としての在り方を成せば、自他ともに幸福になる。 一方、森が自らのためだけに茂ったとしても、森のみの利益にとどまり、それは初めのうちはそれでよいかもしれないが、やがて朽ち行く森とその影響を受ける周囲もともにみすぼらしくなってしまう。最初は立派でも後ではみすぼらしくなってしまう。 自らも輝き他も照らし輝かせる在り方を求めよ、ということ。 悪いカルマばかり積み重ねてきたパエーシ王だが、やがて改心しこのように述べる。 「 決して先生、私は最初は立派で後ではみすぼらしくなりません。森や〈中略〉脱穀場のようには。私はセーヤヴィヤーの都を中心とする七千の村を、四つの部分に分けます。一つの部分は軍隊に与えます。一つの部分は穀物蔵にします。一つの部分は後宮に与えます。一つの部分はとても大きな石造りの邸宅にします。そこでたくさんの人に必需品や食料を与え、たくさんの食物など四種を用意させ、多くの遊行している出家者・バラモン・托鉢者に分け与えます。そうして多くの小誓戒・特質戒・禁忌・放棄・潔斎・断食で〈中略〉暮らします」 皆にとっての益を思い、分かち合い活かしあうこと 自制し暮らしていくこと が伺える。だから、 自らが最高に輝くことで他を輝かせる在り方を求めていこう! 他が輝くことで自らも一層輝く在り方を求めていこう! そうして最期まで立派な在り方...

たいへん謙虚でたいへん控えめであり謙虚さも控え目で、力があって光り輝き煌めいて…

『 ラーヤパセーニヤ 経』(抄)──パエーシ王物語 7 その時代、その時に、パーサの弟子でケーシという若くして出家した者がいた。家系がよく家族がよく、体力がよく容姿がよく、 規律・知識・信仰・行いがよく、たいへん謙虚でたいへん控えめであり謙虚さも控え目で、力があって光り輝き煌めいて、怒り・慢心・迷い・欲望・恨みを抑え、感覚器官を制御して艱難に耐え、延命や死の 恐怖を持たず、苦行に秀で、性格・宗教行為・行動に秀で、自制・率直さに秀で、柔和・控えめさ・忍耐・放念に秀で、学問・マントラ・貞節・論理に秀で、規則・清潔さに秀で、正しい知識・正しい信仰・正しい行いに秀で、14のプッヴァ( Skt. プールヴァ)を保持して四種類の知識を備え、五百人の出家者に囲まれてしかるべき道順で歩き村から村へと遊行して安楽に移り、サーヴァッティーにあるコッタアの霊域にやって来た。 〈沈思黙考〉 たいへん謙虚でたいへん控えめであり謙虚さも控え目で、力があって光り輝き煌めいて… 〈応用・適用・活用〉 自分の内にしっかりとしたダルマを持ってわき目もふらずその道を進む者は、大変謙虚でたいへんひかえめであり、さらにはその謙虚さも控え目なのである。それであって力があり光り輝き煌めいているのだ。真の力やその人も持つ輝き・煌めきは、そういった静けさに宿るのだ。であるから、 自分の進むべき道を明らかに鮮明にし、その道をしっかりと歩んでいこう! そのためにも瞑想していこう! そして、控え目な謙虚さと静けさに近づいていこう! その静けさをもって、光輝き・煌めいている力あるものとなっていこう! シュラバナベラゴラのバーフバリ象。約12か月間の立位のカーヨーッツァルガ(罵られたり犬にかまれたりなどいかなる刺激に対しても反応もせず身体を放棄する瞑想)によって悟られた。脚や腕にツタが絡まっている   ↓テキストブックはこちら↓ 『ジャイナ教聖典選』(国書刊行会) https://amzn.asia/d/5ipN9Ww ★このブログの目的は、 プレークシャー瞑想やそのバックグラウンドについて研究すること 研究したことをプレークシャー瞑想やヨガの指導に反映させ、受講者により良いものを提供していくこと 聖典の内容を自分なりにどう日常へ適用・応用してい...

サーマーイカ行に対する五つの過失を、諒解するべきであり、実行するべきではない

『ウヴァーサガダサーオー』 第1章 アーナンダ  53より それから、サーマーイカ行に対する五つの過失を、ジャイナ教在家信者は諒解するべきであり、実行するべきではない。それは以下のとおり ──思考を悪く据えること、言葉を悪く据えること、身体を悪く据えること、サーマーイカ行を想起しないこと、不安定なサーマーイカ行を行なうこと。  〈沈思黙考〉 サーマーイカ行に対する五つの過失を、諒解するべきであり、実行するべきではない 〈応用・適用・活用〉 テキストブックの注によると、サーマーイカ行とは、 在家信者が日常的に行う儀礼的な行のひとつであり、可能なら一日三度、最低でも一日一度、日没時に、寺院などの閑静な場所で、一時的 に出家者の状態を標榜しながら ── 具体的には、所有物や妻子を一時的に放棄した状態となるが、所有意識が捨てられているわけではないので完全に出家者の状態になりうるわけではない ──、『 アーヴァッサヤ』1・2にある「サーマーイヤ・スッタ」と呼ばれる経文を唱えて瞑想を行なう というものである。これを一言でいうと、 カルマを作らず・流入させない時間を設ける ということ。それに際して重要なのが、5つの過失を犯さないことだ。つまり、 思考を悪く据えること 言葉を悪く据えること 身体を悪く据えること サーマーイカ行を想起しないこと(つまり、サーマイーカを設けないこと) 不安定なサーマーイカ行を行なうこと といったことを犯してはならない。これは何も宗教者や修行者、在家者にだけ適用される原則ではない。そうでない人にも応用できるし、活用すると良い。そういうわけで、 悪い思考を放棄し、それとは反対の善き思考を据えていこう! 悪い言葉を放棄し、それとは反対の善き言葉を据えていこう! 悪い行いを放棄し、それとは反対の善き行いを据えていこう! カルマを生まず流入させないような時間を設けていこう!(瞑想しよう!) シュラバナベラゴラのバーフバリ象。約12か月間の立位のカーヨーッツァルガ(罵られたり犬にかまれたりなどいかなる刺激に対しても反応もせず身体を放棄する瞑想)によって悟られた。脚や腕にツタが絡まっている   ↓テキストブックはこちら↓ 『ジャイナ教聖典選』(国書刊行会) https://am...

このように正しく見直している人は、将来、束縛を作らないであろう

『ダサヴェーヤーリヤ』 第11章(=補遺第2章) 単独行 12・13~12・14より 夜の前半と後半の時間に、みずからに関わることをみずから熟考する。「私は何をしたか、私は何をし残したか、できるのに何を私は正しく行わなかったか。他人は、そして私は、何を私の間違いと見るのか。私はどんな間違いを避けていないのか」。このように正しく見直している人は、将来、束縛を作らないであろう。 〈沈思黙考〉 正しくミナオしている人は、将来、束縛を作らないであろう 〈応用・適用・活用〉 将来束縛を作らないようにするには、つまりより自由になるには、自らを正しく振り返ることだ。その日の反省を正しくするともいえる。そしてその反省で、 「私は何をしたか?」 「私は何を残したか?」 「できるのに何を私は正しく行わなかったか?」 「何を私の間違いと見るのか?」 「私はどんな間違いを避けていないのか?」 といったことを熟考し、日々それらを明らかにし、少しずつ日常の言動や在り方を改善していくのだ。だから、 毎晩その日を振り返ろう! 何をしたかを振り返り、する必要のなかったことを明らかにしていこう! 自分の残したことを振り返り、それが適当だったか明らかにしていこう! できるのになさなかった正行について明らかにしていこう! 自分の間違いに対して他人の立場からも自分の立場からも明らかにしていこう! 自分の間違いを明らかにしたら、それを避けるようにしていこう! シュラバナベラゴラのバーフバリ象。約12か月間の立位のカーヨーッツァルガ(罵られたり犬にかまれたりなどいかなる刺激に対しても反応もせず身体を放棄する瞑想)によって悟られた。脚や腕にツタが絡まっている   ↓テキストブックはこちら↓ 『ジャイナ教聖典選』(国書刊行会) https://amzn.asia/d/5ipN9Ww ★このブログの目的は、 プレークシャー瞑想やそのバックグラウンドについて研究すること 研究したことをプレークシャー瞑想やヨガの指導に反映させ、受講者により良いものを提供していくこと 聖典の内容を自分なりにどう日常へ適用・応用していくかを練っていくこと ジャーナリングを通じて自分自身と対話し、心...

その人の自己が定まっているならば、諸感官はそのような人を揺り動かさない

『ダサヴェーヤーリヤ』 第11章(=補遺第1章) 法楽 11・19より このように、その人の自己が定まっているならば、身体を放棄しても、一方で法の教えを放棄しないであろう。諸感官はそのような人を揺り動かさない。吹き上げた風がメール山を揺り動かさないように。 〈沈思黙考〉 その人の自己が定まっているならば、諸感官はそのような人を揺り動かさない 〈応用・適用・活用〉 その人の自己が定まっているならば、真に必要で重要なものとそうでないものを明らかに識別でき不要なものは放棄できるので、不要なものによって心が揺り動かされることはない。そうあるためには、 何に対して自己を定めるか なぜ自分は生きるのか? なぜ自分は活動するのか? などを明らかにし、それに専心・専念することだ。悩み・迷い・優柔不断に陥いらないようにするには、自分自身に対しての方針や指針の欠如や脆弱性を克服することだ。そうしないと、外的刺激に対して諸感官がいつも反応し心があちこちに揺れ動いてしまう。だから、 自分の今専念している行いや活動に自信を持っていこう! そうやって活動を積み重ねて自己をより一層確立していこう! 確固たる指針を持ちながらも柔軟性を持ち合わせていこう! 目的地や指針を忘れず、余計な争いや他を傷つける行い等を放棄していこう! シュラバナベラゴラのバーフバリ象。約12か月間の立位のカーヨーッツァルガ(罵られたり犬にかまれたりなどいかなる刺激に対しても反応もせず身体を放棄する瞑想)によって悟られた。脚や腕にツタが絡まっている   ↓テキストブックはこちら↓ 『ジャイナ教聖典選』(国書刊行会) https://amzn.asia/d/5ipN9Ww ★このブログの目的は、 プレークシャー瞑想やそのバックグラウンドについて研究すること 研究したことをプレークシャー瞑想やヨガの指導に反映させ、受講者により良いものを提供していくこと 聖典の内容を自分なりにどう日常へ適用・応用していくかを練っていくこと ジャーナリングを通じて自分自身と対話し、心・身・魂をととのえること などです。 +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+...

生まれを誇らず、容色を誇らず、得たものを誇らず、聖典知を誇らず、すべての憍慢を避けて、法についての瞑想を楽しむ

  『ダサヴェーヤーリヤ』 第10章  教導あるいは礼節に対する集中 10・19より 生まれを誇らず、容色を誇らず、得たものを誇らず、聖典知を誇らず、すべての憍慢を避けて、法についての瞑想を楽しむものは、真の托鉢僧である。 〈沈思黙考〉 生まれを誇らず、容色を誇らず、得たものを誇らず、聖典知を誇らず、すべての憍慢を避けて、法についての瞑想を楽しむ 〈応用・適用・活用〉 驕り高ぶってはいけない。いつも謙虚であることが、10・10にあるように 論争となる話をせず、怒らず、感官が落ち着いて、寂とし、意・口・身の行為をもって常に自制に専念し、傷つけず静まっているもの だ。こういうものは、私個人にとっても理想とするものだ。こういう者に近づくためにも、 『意』のレベル、つまり考えとか思いとか、意識の方向とかにおいて驕らず誇らないようにしていこう! 『口』のレベル、つまり発する言葉において驕らず誇らないようにしていこう! 『身』のレベル、つまり行動や表情などにおいて驕らず誇らないようにしていこう! 以上のためにも、瞑想して心身魂をととのえ、アネーカーンタ(非独善主義)の立場をとっていこう! シュラバナベラゴラのバーフバリ象。約12か月間の立位のカーヨーッツァルガ(罵られたり犬にかまれたりなどいかなる刺激に対しても反応もせず身体を放棄する瞑想)によって悟られた。脚や腕にツタが絡まっている   ↓テキストブックはこちら↓ 『ジャイナ教聖典選』(国書刊行会) https://amzn.asia/d/5ipN9Ww ★このブログの目的は、 プレークシャー瞑想やそのバックグラウンドについて研究すること 研究したことをプレークシャー瞑想やヨガの指導に反映させ、受講者により良いものを提供していくこと 聖典の内容を自分なりにどう日常へ適用・応用していくかを練っていくこと ジャーナリングを通じて自分自身と対話し、心・身・魂をととのえること などです。 +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- ふくヨガ~自分が自分の医者になる冥想ヨガ~   文京区・池袋・厚木・茅ヶ崎・秦野・御殿場・Zoom...

①教えられている時は進んで聞こうとする。②正しく実践する。③知ったことを教わった通りに実践する。④そして、そのことによりみずからが思い上がったものとならない

『ダサヴェーヤーリヤ』 第9章  教導あるいは礼節に対する集中 第4節 9・4・3より さて、四種の、礼節に対する集中がある。それは以下のとおり。①教えられている時は進んで聞こうとする。②正しく実践する。③知ったことを教わった通りに実践する。④そして、そのことによりみずからが思い上がったものとならない、ということが四番目の句である。ここに詩節がある。 〈沈思黙考〉 ①教えられている時は進んで聞こうとする。②正しく実践する。③知ったことを教わった通りに実践する。④そして、そのことによりみずからが思い上がったものとならない 〈応用・適用・活用〉 学び方は非常に重要だ。相手の話を聞かなかったり、とかく自我を前に出して「でも、…」とか「だけど、…」と反論が多かったり、教わったことをまったくやらなければ、結局は自分を害し続ける。 私の短いヨガ指導・瞑想指導経験からで恐縮だが、やはりこういう方々はその方の望む改善はあまり見受けられない。素直な方がみるみるとその方の望む方へと改善していく。若いとか歳を取っているとか、性別などは関係ない。これは明白だ。私の指導が良いとかそういうことではなく、ヨガや瞑想に素直に取り組んでいるかどうかの問題だ。 私がその昔ヨガに入門したときも、呼吸を意識し起こってくる感覚を感じるという指導に忠実に従って、約7年苦しんだ病が3か月目あたりから劇的に改善していった。取り組んだことはヨガの原則ぐらいで、つまり呼吸と動作と意識集中の3つを統一して行うという原則に対して、素直に忠実に実践した結果だ。そこから望んでいたことがアレコレと次々に実現していった。 どういう者に教わったり従ったりするかということも非常に重要だが、それはやはり同じで、 聞く耳を持つ者 正しく(原理や摂理、哲学に沿って)行っている者 原理や摂理、哲学等に対して反論ばかりしたり自我をしょっちゅう前面に出したりしない者 思いあがったり人を見下したりしていない者(思い上がりや他を見下すことで自分を優位に立たせたり自分は凄いと見せかけたりしない者、「私はお前に教えてやっているのだ」という内心の働いていない者など) から教わると良い。学び方のなっている者から教わると良いということだ。自分自身が以上を実践していれば、自分が自分の師になることもできるだろう。常に自分自身と対話ができるからだ。私もそう...