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10月, 2023の投稿を表示しています

しっかりととどまらせるべきである

  『アーヤーランガ』第1篇 第6章 振り払うこと 第1節6・1・6より 欲望の傍に導かれて耽っている実の親は慟哭し、「実の親を捨て去らない者が、激流を渡る黙考する修行者というものだ!」と叫ぶ。彼は家族や親類などというそこを避難場所だといって行きはしない。いったいどうして、彼がそこで悦ぶというのか。常に、この諒解にお前はしっかりとみずからをとどまらせるべきである。     〈沈思黙考〉 振り払い、しっかりとみずからをとどまらせるべきである 〈応用・適用・活用〉 色形(ルーパ)に執着して生きるものは未来に対して邪念を持ち、過ちや苦しみを繰り返し暴力を侵し、再び生まれ変わり同様のことを永遠に続ける。特に人間はさまざまな病気を患いその影響を他に及ぼすという暴力をはたらく。執着が他に暴力をはたらく。また、家族親類縁者たちは身内に対する執着が強固だ。強固な欲望によってお互いにつながっている。お互いを束縛しあい、自由を認めない。これも暴力だ。自由に生きてよいといいながら、見えないレベルでは強固な執着と束縛が働いている。そしてその影響は強力ゆえ、それに飲み込まれやすい。 家族は大切だし親が自分を生んでくれたおかげでこうしてさまざまなことが経験できてきた。感謝してもしきれない。だが、お互いの魂は自由のもとに友好的であるべきだ。お互いに暴力をはたらいてはいけない。自己都合の欲望に相手を引きずり込んではならない。これは個人対個人でもそうだし、組織・団体対個人というレベルでも同じ。 昔、ある牧師さんから教わったことにこういうのがある。 組織や団体が人を採用したり迎え入れる際に、 自分たち組織・団体がその相手にどうして差し上げることができるか? を念頭に人を迎え入れるのが本来だ、ということだ。自分たち組織・団体の利益を優先するのではなく、迎え入れる相手のためにできることを中心に世に貢献していこう、という理念というかスタンスだ。自分たち組織・団体の利益を優先するということは、 「クレクレ」という貪り 我利我利亡者 未来に対する邪念の持ち主 に他ならない。そんなスタンスの者たちを 勇気をもって振り払う のだ。そして、 本来の魂にしっかりとみずからをとどまらせるべき なのだ。だからこそ、 瞑想していこう! 活力を高めていこう! 執着に苦しんでい...

活力ある者は、基盤なきものを知悉している

  『アーヤーランガ』第1篇 第5章 世の本質 第6節5・6・4より 活力ある者は、基盤なきものを知悉している。それは長くなく、短くなく、赤銅色ではなく、黄色ではなく、白色ではなく、芳香を放たず、悪臭を放たず、苦くなく、辛くなく、渋くなく、酸っぱくなく、甘くなく、粗くなく、柔らかくなく、重くなく、軽くなく、冷たくなく、熱くなく、滑らかでなく、ざらついておらず、集合体ではなく、成長せず、付着せず、女性ではなく、男性ではなく、その他のものではない。知りぬく作用を持ち、表象作用を持つが、これを譬えるものは見当たらない。色形(ルーパ)がないが存在性はある。ことばで表現しえないものに、ことばは存在しない。それには音がなく、色形がなく、香りがなく、味がなく、触感がない。以上のごときものである。     〈沈思黙考〉 活力ある者は、基盤なきものを知悉している➡基盤なきものを知悉するには活力が必要だ! 〈応用・適用・活用〉 基盤なきもの、つまり知りぬいたうえで放棄しカルマの流れの中にあっても安定している解脱したものに至るには活力が必要だ。解脱とはいかなくとも、モノコトにいちいち反応しては過ちを繰り返したり苦しんでいる者だってそれらを少しでも解消するには、やはり活力が必要なのだ。ここでいう活力とは、カルマをしっかりと振り払うのに必要な活力。プレークシャー瞑想では第2技法のアンタルヤーットラー(内なる旅)という技法で活力を産出し自己の内に充実させる。深い瞑想には必要不可欠なのだ。感覚器官を制御し、しっかりと諒解しながらもイチイチ反応しない自己を育むには活力が必要なのだ。だから、 瞑想していこう! アンタルヤーットラーを日常の習慣にしていこう! 産出された活力を善用していこう! そうやって感覚器官を制御できるようにしていこう! ↓テキストブックはこちら↓ 『ジャイナ教聖典選』(国書刊行会) https://amzn.asia/d/5ipN9Ww +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- ふくヨガ~自分が自分の医者になる冥想ヨガ~   文京区・池袋...

流れの中にあって安定している

  『アーヤーランガ』第1篇 第5章 世の本質  第5節5・5・1より では、私は語ろう。それは例えば次のようなことでもある。平地にある満水の池は、塵が鎮まり澄みわたった状態で安定している。同様に彼は完全に防御しながら、流れの中にあって安定している。お前は見よ、彼はあらゆる面で防護されている。お前は見よ、洞察力を備え、目を覚まし、暴力行為を停止している偉大な聖仙たちがこの世にいる。これが正しいことであると、お前たちは見よ。彼らは死の時を望んで遍歴する。       〈沈思黙考〉 彼は完全に防御しながら、つまり悪を避けながら、流れの中にあって、つまり世間の中にあって、安定している。   〈応用・適用・活用〉 たとえ世間の中にあって悪という欲望に囲まれていても、常に安定せよ。つまり、たとえ世間の中にあっても、 洞察力を持て! 目を覚ませ! 暴力行為を停止せよ! ということだ。自らを守りながらそうあれということだ。だから、 「誰かが追従してくれるのか、誰も追従してくれないのか」という疑惑を放棄する 事が必要だ。疑惑があると洞察力が鈍り悪に引き込まれやすくなる。その結果暴力行為につながる。では、疑惑を放棄するにはどうしたらよいのか? 信ある者、意に沿う者、供に遊行する者が「正しい」と思っていること、それは時に正しい 「正しい」と思っていること、それは時に正しくない 「正しくない」と思っていること、それは時に正しくない 「正しくない」と思っていること、それは時に正しい 「正しい」あるいは「正しいかもしれず、あるいは正しくないかもしれない」と思っていること、それは観察に基づくと正しいものとなる 「正しくない」あるいは「正しいかもしれず、あるいは正しくないかもしれない」と思っていること、それは観察に基づくと正しくないものとなる というふうに正しく観察することだ。あらゆるコト・モノをフラットに平等に観察せよ、ということだ。そうするとどうなるかというと、5・5・3によると、 このようにすれば、世間との関係性はすでに消滅している ということだ。つまり、変化するものとそうでないものが識別でき明らかになれば、つまり諦めれば=変化し執着できないものに気づきそれを放棄すれば、そこで世間との関係性は消滅して変化するものに振り...

常に悪を避けるべきである

  『アーヤーランガ』第1篇 第5章 世の本質  第4節5・4・5より …彼は語らず、質問せず、話を広めず、「私のものである」といわず、「なされるべきことをなした」と言わない。言葉を慎み、自己の内面を覆い護って、常に悪を避けるべきである。黙考する修行者のこのあり方に、しっかりとみずからをとどまらせるべきである。       〈沈思黙考〉 常に悪を避けるべきである   〈応用・適用・活用〉 自分の周りにも自分の中にも悪はあって、つねに欲望という内在の働きによってその悪は悪性の方へ引きずり込もうとしてくる。誰もがそういう経験があるかと思う。 ダイエットを始めると逆に色々と食べ物を勧めてくる人 断食とか菜食を試し始めた途端、「それじゃダメ!栄養が…」とアレコレ言ってくる人 何か着手したり意見を述べたりすると「でも…」「それは違う、…」と否定や批判ばかりしてくる人 etc. 自分の内在にも、 やめられない止まらない というのが多くの人にあるかと思う。 僧の修行から導き出された知恵に対しても お坊さんだからでしょ?普通の人のことなんてわからないんじゃないの? と否定したり批判する人もいるだろう。 そういうことに対して 勇気をもって断ち切り滅ぼし放棄する することが大切だ。特に悪いものは避けないと、あっという間にそっちに引きずり込まれる。だから勇気をもって“No”を突き付けるのだ。自分を批判する人も、修行僧を否定する人も、自分自身の欲望も、みんなその人や性質という立場からのみ都合よく言っているだけだ(カルマの操作からの発言や言動に気づいていない)。単に嫉妬して嫌悪の感情が発動しているだけだ。現状が嫌で他をひがむならば、たとえば、パッと修行僧になればよいだけのこと。 そういう類の悪はできるだけ常に避けるようにし、自分自身に余計な悪いカルマを流入させないことだ。だからこそ、 瞑想していこう! 余計なカルマを流入させない時間(※サーマーイカ)を作っていこう! 嫌われる勇気をもっていこう。そして良いことに恵まれるようにしていこう! そうやって平静・平安にしっかりとみずからをとどめていこう! ※サーマーイカ(सामायिक)=「時間」という意味だが、ここでは48分間瞑想したり経典を読んだりと霊的なことを48分間行う修...

勇気を否定するべきではない

  『アーヤーランガ』第1篇 第5章 世の本質  第3節5・3・1より 世間では、誰であれおよそこれだけの、所有欲のない者がいる。そして他ならぬこれらのものに対し、所有欲がない。「ここで私が繋がりを滅ぼしたのと同じように、別の場合でも滅ぼすべきである。しかし、繋がりというものは滅ぼしがたい。それゆえに私は語るのである」と立派な人々によって正しく説かれた教え(ダルマ)がある。叡智ある者は、聡明な人々のそのような言葉を聞いて耳にした後、勇気を否定するべきではない。       〈沈思黙考〉 「繋がりを滅ぼした」と聞いたなら、その道を進む勇気を否定するべきではない。   〈応用・適用・活用〉 ここでいう「勇気」はカルマを徹底的に滅ぼし放棄する修行の道を、勇気をもって歩めというニュアンスかと思うが、一般人に適用するならば、 自分を苦しめているモノ・コト・ヒトなどとのつながりを勇気をもって断ち切ること とも捉えられる。だが、これは単に何かを断ち切って自分が楽になるということではない。その何かが自分の内側の奥底にも根深いカルマとして存在しているからこそ、その苦しみや問題などがモノ・コト・ヒトという形で目に見えたり感じられたりするわけだ。自分の中にそういう要素がなければそもそもそういうことは見えないし感じないし経験しないはず。 ゆえに、何かを断ち切ることはほかならぬ自分自身のカルマをクリーンにしていくことなのだ。自分自身と向き合うということなのだ。そしてクリーンになれば『他を通じて苦しみや問題が見えたり感じたりする』ということが無くなっていく。自他ともにクリーンになっていくのだ。 切開して膿を出すようにそこには痛みが伴うかもしれない。執着や愛着があって断ち切りにくいかもしれない。でもそこで、 勇気をもって断ち切り滅ぼし放棄する のだ。だからこそ、 瞑想していこう! 自分をととのえていこう! 感情をしずめて、優しい気持ちで断ち切って放棄していこう! 自分をクリーンにしていくことが、全体をクリーンにしていくことに他ならないと諒解して、以上を実践していこう!!!     ↓テキストブックはこちら↓ 『ジャイナ教聖典選』(国書刊行会) https://amzn.asia/d...

唯一の拠り所を楽しみ、・・・

  『アーヤーランガ』第1篇 第5章 世の本質  第2節5・2・3より 悪しき諸行為(カルマン)に拘泥している者たちは「それらの苦痛が触れる」と言う。勇者は「諸々の接触という苦痛に触れられたならば、耐えるべきである」と言う。彼のこの肉体は、後にも先にも壊れる性質をもち、ばらばらになる性質をもち、堅固ではなく、永続的ではなく、増減するものであり、変化する性質をもつ、とお前は見よ。こういう類の繋がりを無関心に見て、唯一の拠り所を楽しみ、ここで解き放たれ、欲望から離れている者には、再び生に至る道すじはない。       〈沈思黙考〉 唯一の拠り所、つまり三宝(トリラトナ/ラトナトラヤ)を楽しみ、ここで解き放たれ、欲望から離れよ。   〈応用・適用・活用〉  三宝 (トリラトナ/ラトナトラヤ) とは、次のこと。 ● 正見-サムヤグ・ダルシャナ Samyag-darshana (1) 言われたことを信じるということではなく、物事を正しく見て(聞いたり、感じたりして)、先入観や迷信を避け、はっきりと明らかに見ること。これは「正しい認識」とも呼ぶことができる。真実を見つけ、それを非真実と区別しようと決意しない限り、これを達成することはできない。☞ヴィヴェーク・スートラ「自分自身で真実を見つけましょう」   ●正知-サムヤグ・ジュニャーナ Samyag-jnana 宇宙の真理についての正しい知識を持つこと。この正しい知識とは、宇宙に関する5つの(あるいは6つの)素性と9つの真理についてことで、この正しい知識を正しい認識で持つことが正知。かみくだいて言うと、正知とは純粋な魂を持つことで、つまり執着や欲望から自由な魂を持つということ。また、正しい知識を持つ人は、自然に執着や欲望から自由になり、心の平和を得ることができる、といえる。   ●正行 - サムヤグ・チャーリトゥラ Samyag-charitra 正見・正知に基づいた生き方、正見・正知の実践。ジャイナ教の5原則や3戒律などに従って生活し、生き物に害を与えないようにし、執着やその他の不純な態度や考えから自分を解放すること。 (1) サムヤク=「正しい、ちゃんとした」の意味。 他語とハイフンでつながると「サムヤ...