『ウッタラジャーヤー』(抄) 第20章 偉大なニッガンタ 20・37より
私自身は不幸と幸福をもたらす行為者であり、破滅させる者でもあります。悪く行ずるか良く行ずるかによって、私自身は友でもあり敵でもあります。
〈沈思黙考〉
私自身は不幸と幸福をもたらす行為者であり、破滅させる者でもあります
〈応用・適用・活用〉
ある時、マガダ国の王であるセーニャは偉大なニッガンタ(聖人)に出会う。その若い聖人から、「保護者などいないのだ」ということを説かれる。
その聖人は幼少期にひどい目の病に痛み苦しんでいたが、どんな治療法もどんな薬剤もどんな人も彼の病を治すことはできなかった。誰も彼の保護などできなかったのだ。しかし、そこからこのように決起する。
「終わりのない輪廻において、何度も何度も苦痛に耐えることは、とても堪えがたいものです。もしすぐにでも、大きな苦痛を取り除くことができるなら、その時、私は安穏で調御し、殺害の行為を止めた、家なき出家者になります」
このように発し眠ると、ひどく苦しんだその耐えがたい目の病は治った。そして翌朝出家しその道を歩み始めた。
ここでいいたいのは、
- 真実を観る目が曇っていて、そのことにより本来の生き方ができずに苦しんでいた
- しかし、真の生きる道を見出し、つまり無明から脱したことで、苦しみは消失していった
ということだろう。つまり、
- 自分が真に為すべきこと、真の生き方、その方針や方向性がわからないから悩み苦しんでいる
- しかし、いろいろと試行錯誤していく道のりで、方針や方向性、目的地、またそれに基づいてどうしたら良いのか、何をしたらよいのか、つまり「なぜ人間に生まれ人間として生きるのか」といったようなことが明らかになり、
- 悩みや苦しみが消失していく
といった具合だろうか。自分の天分を知るといってもよい。自分を治療するとか、自分が自分の医者になるというのは、こういうことだ。自分に病気があるとか不具合があるとか、それに対してアレをやると良いとかコレを食べると良いとか、そんな次元の話ではない。自分が天分に生きるとき、そんな次元の話は消失していくということだ。真実を観る勝利者の目を治し取り戻すのは、他でもない自分自身だ。だれも自分を保護などしてくれないのだ。そういうことで、
- 自分が自分の医者になっていこう!
- 私自身は真の幸福をもたらす行為者となっていこう!
- そのためにも瞑想していこう!
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