『アーヤーランガ』第1篇 第8章 解脱の手段 第3節8・4・2より
「さて、私は艱難や誘惑と接触している。私は寒さという接触の苦痛を耐えることができない」と、このようにある托鉢僧が考えるとする。そういうその者も実は一切を備えた洞察力たるアートマンによって、本質的には強力なのであり、そういった者のうちのある者は行為をしないことに転じた。いいかね、一人で森を受け入れること、それが苦行者にとってはより優れている。そういうところでも、その者の出家者としての時は繰り返され、彼もそこで末期を迎える。以上のように、これが幸福で、安楽で、有益で、完璧で、好ましい、解脱の本拠である。
〈沈思黙考〉
そういうその者も実は一切を備えた洞察力たるアートマンによって、本質的には強力なのである
〈応用・適用・活用〉
- まずは、「自分は一切を備えた洞察力たるアートマン(真我)によって本質的には強力なのである」と有無を言わさず了解すること
- 試行錯誤していき
- 知っていき
- 洞察力を取り戻し
- 識別し
- 放棄し
- 行為をしないことへ転じていく
…彼は探し求められるにふさわしい諸々のころもを乞うべきである。彼は諸々の衣を受け取った時点の状態のままで、所持するべきである。彼は洗うべきではないし、染めるべきではない。…村々のあいだでは最低限の衣を纏う。これが衣を保持する修行者の一般則である。衣は必要最低限だけ(三枚のみ)所持し、何か余計な手を加えてはならない。つまり、余計なものは所有せず、余計なカルマを自ら加えない(行為をしない)ようにするわけだ。真っ白な衣にカルマという名の着色をしない(行為をしない)ようにするのだ。余計な着色をすると余計な情報が加わり、天分が霞んでしまう。集中すべきことに集中できなくなる。余計な行為が余計な行為を生み出す。これでは生きているのに死んでいるかのようになってしまう。自分が活きない。だから余計なものは加えない。
そして次のように続く(8・4・1より)
…「さて、冬が過ぎて夏が来た」と諒解するならば、すっかり古びた状態のまま諸々の衣を処分するべきである。すっかり古びた状態のまま諸々の衣を処分した後、下衣と上衣とを纏う者、あるいは最低限の衣を纏う者、あるいは一枚の衣を纏う者となる。あるいは衣なきものとして軽快な状態にみずからを向かわせるならば、彼は苦行を備えている。…
余計な手を加えず保ってきた真っ白な衣もやがては放棄していく。強力な自分を信じ天分に生きていくプロセスで、さらに余計な古びたものを放棄していくのだ。いくら真っ白に保ってきた衣でも、それは滅びゆくものであり本質ではない。活かし切ったうえで、そういったもののお陰を感じつつ放棄していくのだ。放棄して本質を明らかにし、その本質そののものへ還るのだ!そういうわけで、
- 瞑想していこう!
- 古びたものはお陰を感じつつ放棄していこう!
- 放棄して自分の天分をより明らかにしていこう!
- その天分にイキイキと生きていこう!
- そして、イキイキとした光彩(輝く光)を放つ存在となっていこう!
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