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活力ある者とは、光彩あるあるものを知悉する者のことである







『アーヤーランガ』第1篇 第8章 解脱の手段 第3節8・3・2より

活力ある者とは、生起と死没とを諒解した後で、光彩あるものを知悉する者のことである。肉体は糧の蓄積であって、艱難があると壊れてしまう。お前たちは見よ。すべての感官が現に病んでいても、活力がある者もいる。その彼は武器を下に置くことを知悉し、憐れみを実践する。そういう托鉢僧は、適時・力・適量・機会・礼儀・教義について諒解している者であり、所有物をわがものにすることなく、適時に実践し、無関心な者として生と死という双方で断ち切った末に、離れていく。

 


 〈沈思黙考〉

活力ある者とは、生起と死没とを諒解した後で、光彩あるあるもの、つまり自制や解脱を知悉する者のことである


〈応用・適用・活用〉

活力とは魂のもつ純粋で平和な力というかエネルギーのようなものと思われる。この力・エネルギーが発揮されるには、

  • 生起と死没を諒解する
することだ。私たちの肉体は糧の蓄積、つまり食物の蓄積であってはかなく滅びゆくものだ。生起と死没を諒解するということは、「滅びゆくモノには執着できない」ということを悟ることであり、自分自身の肉体を通じて諒解していくものだ。もっと日常レベルにこの原理を落とし込むならば、
  • 執着すべきでないモノに気を取られずに、
  • 自分のやるべきことに全集中する!
といえるかもしれない。滅びゆくと諦めたとき、真なる要・不要が明らかになる(諦める=明らかにする)。自分の力をいかんなく発揮するということは、それを妨げる不要で不敵なものを知ったうえでそれに気を取られずに=無関心な者として、ちゃんと識別し=諒解し、
  • 適時
  • 適量
  • 機会
  • 礼儀
  • 教義(教え・原則・ルールなど)
を調和させた行いを実践していくということなのかもしれない。所有物をわがものにせず、自他双方の調和を念頭に活用することも重要だ。自分の利益ばかり求めてもいけないし、相手の強欲に加担したり相手の強欲を許してもいけない。双方の調和でなければ、お互いを傷つける暴力となってしまう。

識別力=知る力=洞察力がとても重要だ。だからこそ、
  • 瞑想していこう!
  • 調和とは何かを沈思黙考(アヌ・プレークシャー)していこう!
  • 自分の執着を知って放棄していこう!
  • そうして自分のやるべきことに集中していこう!
  • そして、光彩(輝く光)を放つ存在となっていこう!




シュラバナベラゴラのバーフバリ象。約12か月間の立位のカーヨーッツァルガ(罵られたり犬にかまれたりなどいかなる刺激に対しても反応もせず身体を放棄する瞑想)によって悟られた。脚や腕にツタが絡まっている












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