『ウッタラジャーヤー』(抄) 第12章 黄色い髪をしたもの 12・38より
(バラ)「バラモンたちよ、何故聖火の世話をし、水によって外見の清浄を求めるのか。賢人たちは言う。あなたがたが求める外見の清浄は、正しい祭祀ではない。
〈沈思黙考〉
あなたがたが求める外見の清浄は、正しい祭祀ではない
〈応用・適用・活用〉
清浄のために執り行っている祭祀は、実は内容の伴っていない外見ばかりの形式的なものである。そのことに気づかずにその形式的な祭祀を当然だと無意識に思い込んでいたバラモンたちは、托鉢でその祭祀場に訪れたバラ(聖人)の外見だけを見て低俗だと勘違いしてしまった。
- 自制
- 精進
- 静寂
をなしている聖人の内面に全く気付かなかった。外見だけ取り繕っている者は真実と嘘、何が本当に大切で何が不要なのか、といったことが分からなくなる。目が曇っていく。
「星の王子さま」(サンテグジュペリ)で出てくる
「かんじんなことは、目に見えないんだよ」
の通りだ。相手のこともそうだが自分自身に関してだって世の中の情報にしたって、そうなのではないか?そこでまず、
- しっかりと目的地を確認し今一度明確化する
ことが重要かと。バラモンの祭祀を例に挙げると、
- 祭祀の真の目的は何なのだろうか?
- 清浄とはどういうことなのだろうか?
といった問いを立て、アネーカーンタ(非独善主義)の立場から真の目的地を明確化していくことだ。そうやって曇っていた自らの目をまずは明るくし
- ものごとを明らかに観る
ことができるよう自己をととのえていく。そのうえで、
- 他物や他人に真実を観ていく
ようにする。この作業を同時に成していくのが
- 瞑想
である。自己を深く観ていき、そこに他も見出していく。そこから得た真実を自他へ活かしていく。プレークシャー瞑想で唱えるヴィヴェーク・スートラがまさにこれを言っている。
「自分自身で真実を見つけましょう。そして全ての生き物たちと仲良くしましょう」
12・45でバラモンたちがこういうふうに問ういている。
「あなたの池は何ですか。あなたの聖なる霊場は何ですか。どこで沐浴し、どのように不浄を取り除くのかを、言ってください。夜叉たちによって供養された修行者よ。我々は目の前であなたからそれを学びたい」
するとバラがこう答える(12・46~12・47)。
「法(ダルマ)が池であり、神聖な生活をする梵が霊場である。それは濁っておらず、そこではレーサー(Skt. レーシュヤー)が清らかにされる。そこで私は沐浴し、穢れを除き、清浄になり、冷静になって嫌悪を取り除く。賢者たちはこの沐浴を示し、聖仙たちは大きな沐浴を称賛する。そこで大聖仙たちは沐浴し、穢れを除き、清浄になり、最高の地位を得る」
汚れを落とす何か特別な池があるわけではなく、真の修行僧・托鉢僧は日常生活を霊場=修行場とし、そこで神聖な生活を送る=法(ダルマ・教え)を実践して穢れ=真実を曇らせているカルマを除いていくのだ。やはり、自分自身で真実を見つけていくのだ。
俗レベルに落とし込むならば、
- 外見ばかりを取り繕ってよく見せるのではなく、
- 普段の日常生活に目に見えない清浄な流れ・祝福の流れなどを通しながら
- 自身の生活をととのえていく
のだ。そうして、
- 自分自身を深く見つめ、
- 天命というか天分を見出し、
- それを全うしていく
みたいな感じだろうか。『丁寧に生きる』と言ってもよいかもしれない。瞑想の時間も設け、あわせてこんなことも日常でやっていって、いや、こういうことこそ日常でやっていって、この両輪でより良い生き方を見出していきたい。
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