『ウッタラジャーヤー』(抄) 第8章 カヴィラの詩 8・2~8・4より
以前の関係にかかわらず、人は何事にも愛著すべきでない。愛著を導くものの中で愛著がなければ、托鉢僧は過失や罪悪から解放される。それゆえに、知識と洞察力をすべて備え、迷妄から解放されたすぐれた牟尼は、すべての生類の幸福のために、彼らの解脱のために話す。托鉢僧はすべての束縛とこの種の争いを捨てるべきである。聖人はすべての種類の愛欲を見つつも、執われない。
〈沈思黙考〉
すべての種類の愛欲を見つつも、執われない
〈応用・適用・活用〉
不安定な輪廻において、苦悩に満ちた迷妄の茂みの中で、人が地獄に行かずにすむには、どのような行為をすればよいのであろうか?それは
- すべての種類の愛欲を見つつも、執われない
ということだ。そうするためにどうしたらよいのかというと、8・10にあるように
動くものであれ静止しているものであれ、この世に生きる生類に対して、人は心や言葉や身体によって罪深い行為をとるべきでない。
ということ。愛欲は利己を生み出し、利己はやがて暴力につながる。やはりアヒㇺサー(非暴力・不殺生)をいかに自分自身に浸透させ潜在意識に落とし込み実践するかだ。これはつまり、
- カルマを放棄すること
- 自己のカルマを放棄することで、愛欲を見つつもそれに反応しない自己を確立すること
と言い換えることができる。つまり瞑想することとも言えるし瞑想する目的がこれらといえる。
そしてその実践・プロセスにおいて、
- 享楽や風味に貪欲な自分に気づき律し、
- 真に自分がやるべきことに専心専念し、
- 自分の才能・ギフトを精一杯発揮していく
↓テキストブックはこちら↓
『ジャイナ教聖典選』(国書刊行会)
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
ふくヨガ~自分が自分の医者になる冥想ヨガ~ 文京区・池袋・厚木・茅ヶ崎・秦野・御殿場・Zoom
https://www.fukuyogamedita.com/
SNS
Facebook pageFacebookTwitterInstagramYouTube(ヨガ)Youtube(プレークシャー瞑想)
コメント
コメントを投稿