『アーヤーランガ』第1篇 第9章 苦行についての伝承 第4節9・4・13、9・4・14より
また、羹・乾物・冷えた団子・古くなった未熟な大麦・滓・質の悪い穀物であろうと、施食が得られた時も得られなかった時も、賢明であった。
また、かの偉大なる勇者は坐法を保ち、体を繰り返し曲げたりはせずに、瞑想した。無関心にして、心身の統一を観察し、世界の上方、下方、水平方向について瞑想した。
〈沈思黙考〉
いかなる状況でも賢明であり、瞑想し無関心を保ち心身の統一を観察した。
〈応用・適用・活用〉
賢明であることが平安を保つこと。平安とは波が少なかったり波がなかったりということだ。つまり、静止の状態が平安なのだ。賢明であるとは、言い換えると静止ということができる。この状態を自分の内側に築き上げていくのだ。そのためには
- 反応しない
瞑想時に不動を保つのも、余計な反応をしないということだ。体を繰り返し曲げたりはせず、坐法を保つのだ。
起こってくることに反応せず、
また動くことで起こってしまう波を立てないようにすることで静止状態=平安であろうとし、
しっかりと心身の統一を観察しながら平安であろうとする状態からそんなことを意識せずとも平安である状態へと入っていくのだ。
不動でいられない、つまり平安でいられないのは、得られなかったり得られたりということ、つまり快・不快に反応しているからだ。
- 体を繰り返し曲げる→不快な状況からの脱出を得るため、快を得るため
ということ。快・不快を求めなくなれば常に平安になれる。求めている限り次の要求が内側から起こってくること必至だ。欲は尽きない。だから、日常で
- 快・不快を実感していこう!
- 快・不快に反応している自分を自覚していこう!
- 自覚し諒解したうえで放棄していこう!
- 放棄できているかどうかその程度を瞑想によって確かめていこう!
- 確かめたら、また日常でもっと微細な快・不快に気づいていこう!(観察していこう!)
- そうやって快・不快に打ち勝っていこう(勝利者に近づいていこう!)
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