『アーヤーランガ』第1篇 第4章 正しい状態 第4節4・4・2より
…疑惑を知りぬいたうえで放棄した者は、輪廻を知りぬいたうえで放棄している。疑惑を知りぬいたうえで放棄していない者は、輪廻を知りぬいたうえで放棄していない。利発な者は、在家者がするようなことには馴染まない。こういう在家者がやるようなことを行った末にその行為を軽んじる愚鈍な者は、外から得た二つ目の愚かさを持つことになる。良く調べて理解した後、在家者がやるようなことに馴染まぬよう諒解させるべきである。
〈沈思黙考〉
疑惑、つまり世というカルマによって成り立っているモノやコトについて良く調べて理解した後、つまり瞑想したり沈思黙考して理解した後、そういう在家者がやるようなことに馴染まぬよう自分自身を諒解させるべきである。
〈応用・適用・活用〉
欲に溺れるなということ。カルマによって成り立っているこの世のモノやコトは私たちの目や耳や鼻や皮膚などの感覚器官を通じて私たちの欲望を掻き立て何かしらに中毒化させる傾向がある。私自身はよく「命の声を聴く」ということをこれまでのヨガで教わってきたが、その命の声は本当に真実にかなっていて魂の声なのかをよくよく調べることが非常に重要だ。その声は欲望という名のカルマに操作された声かもしれない。その声に従って、本当に他を傷つけたり似たような過ちを犯し続けていないだろうか?「命の声を聴く」という教えを大義名分として勝手気ままに行動したり発言したりしていないだろうか?
5・1・2にこうある。
諸々の色形(ルーパ)に対して強欲になって巡り導かれているあの者を、お前たちは見よ。「何度もここ、接触という苦痛の上で」というごとくである。
諸々の色形(ルーパ)、つまりカルマによって成り立っているモノやコト(世間)が自分の感覚器官によって知覚されて、つまりそいうモノやコトと感覚器官の接触によって生み出される苦痛(中毒性・繰り返す過ちなど)の上でずっと輪廻転生から脱することのできないあの者をしっかり観察し理解せよということ。ここでいう「あの者」とはカルマに操作されているほかならぬ自分自身であり、そういうカルマを被った自分というフィルターを通して見えている他人や他の生きものたちのことだろう。自分からも他人からも学び取るのだ。だからこう考えてはどうだろうか?
- そもそも肉体という重量のあるカルマをまとっているのだから、中毒になったり過ちを繰り返すのは当たり前だし仕方がないと諦めていこう!
- 諦めるというのは「明らかにする」ということで、自分のカルマを明らかにすること。失敗も繰り返す過ちも自分のカルマを明らかにしてくれているのだと懺悔し謝り赦し活かしていこう!
- 少しでも自分のカルマに気づいたらそれを祝福していこう!
- 気をつけたいのはカルマを消したりすることを強く目的化しないこと。少しでも自他を傷つけないようにしていったりお互いが祝福しあえるようになっていくことなどを念頭に置くと良いような気がする
プレークシャー瞑想の実習の最後の方でヴィヴェーク・スートラというのを唱える。
自分自身で真実を見つけましょう。そしてすべての生きものたちと仲良くしましょう。(Appana Sacchamesejja Mettim Bhuyesu Kappae アッパナー サッチャメーセーッジャー メッティㇺー ブーイェース カッパイェー)
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